氷の浮かぶ北極海で捕獲したクジラを引いて村へ戻るエスキモーのボート。先頭のボートのクルーは、ようやく獲れたクジラに腕を広げガッツポーズで喜びをあらわしていました。
クジラが捕れたことが無線で伝わると村人たちはぞくぞくと浜に集まります。皆でクジラにロープをかけ岸に引上げます。解体が始まると人々は嬉しそうに見守っていました。解体する人、すぐさま調理し肉を皆に配る人。クジラの回りを走り回る子供たち。
空も海も紅く染まってゆく中、人々は笑いながら美味そうに肉を頬張りながら解体作業は朝まで続きました。すべての肉は村人たちで分けられます。
解体が終わる頃、匂いを嗅ぎつけたシロクマたちはおこぼれ頂戴に何処からともなくやって来ます。残りはシロクマや鳥たちのもの、昔からそうだった、エスキモーの友人はそう言っていました。この母グマは肉の固まりをくわえるとそそくさと子グマの元へと戻って行きました。
オランダのハーグに本拠地を置く国際司法裁判所は、南極海で行われている日本の調査捕鯨の中止を命じる判決を下し、多くのメディアではそのニュースが流れました。
以前から捕鯨問題は何度も取り上げられ、クジラを獲っている日本はこの問題ではずいぶんと叩かれて来ました。
嘗て、イギリスやアメリカでは鯨油やコルセットに使う髭を採るだけの為に捕鯨が行われていた歴史があります。捕獲した一頭の5%〜20%だけが製品として確保され、残りはほとんど海に捨てられていたといいます。クジラが一時、絶滅の危機に貧したのはこの時の乱獲に起因しているとも言われています。
日本の捕鯨の歴史は400年続くもの、調査捕鯨が開始されたのは30年ほど前からのこと。捕獲されたクジラからは環境問題に関する様々なデータも集められています。
捕獲したクジラの肉を市場へ回していることで商業的要素が強くなったとみなされ、国際条約違反とされ、南極海においては捕鯨中止の判決が出ましたが、日本政府はその決定に従うとのこと、いずれにしろ控訴できないこの判決には従うほかないのです。
海外で、食べ物の話題になった時、日本人はクジラを食べる話になりイタリア人と喧嘩になったことがありました。
他に食べる物がいくらでもあるんだから何もクジラを食べなくたっていいじゃないか!そう言われて、じゃ、パスタを食べるな!と言われたらどうする!?とおかしな理屈で言い返したことを覚えています。
クジラに限らず動物の命を、食べ物として自分たちの体に取り込んでいる人々の意識には何故?という疑問や理屈などないのです。
クジラはダメ、牛や豚はいい、という理屈はおかしいし、パスタだって同じこと。あらゆるものには命があり、ひとつの命を繋ぐには、一つの命が失われる。それが生きて行くことなのでしょう。
捕鯨判決はどこか腑に落ちない結果とも思えますが、どこにも正しい答えなどありはせず、ニュースを聞いた僕はただ、北極海沿岸で獲れたてを食べたあのクジラの味を思い出していました。
いつもの店へ夕食の買い物へ行くと、皮肉にも刺身売り場にはクジラの肉が......
その中で一番大きなパッケージを買い物かごに入れました。
アイスランド産
ナガスクジラ
150g
374円